ある部分がバラバラに分化していく過程には

ある部分がバラバラに存在していると気づけていく過程には。

 

 

ある部分とある部分が明確に違うということに

気づくこと。

 

 

何が違うのか?

意味が

明確にならないで良い。

 

 

何か違うものという明確な感じを掴むこと。

より自分の言葉で表現するともっとクリアになるけど。

 

 

ある部分とある部分とは

違いを知るということということは、

 

股関節と骨盤という パーツパーツレベルの階層かもしれないし

 

小さな変化ですと、

隣の肉と隣の肉  この隣の肉通しの距離はよりスキルが上がれば、細かく繊細に。

質感の違いだったり、温度も違ったし、脈打つ感じも違うし、イキイキ感だったり、色々。

皮膚、肉、骨という

身体の奥深くに入っていく感じも忘れず。

 

 

逆の視点で、皮膚、肉、骨という

深ーく入っていく探求をしている時には、

他の場所へ連動している繋がりを受け取ることも忘れず、

 

そもそもベーシックファンクションの捩れがあるので、3Dに捉える。これ難しいけど。

身体の縁をなぞっていくわけではなくて、

8の字、♾の立体感

から感じてくると身体が膨らみます。

 

ボヨンボヨン。

 

そうやって、ベーシックファンクションがある前提で、関係性のレベルの簡単な相に戻っていくとまた皮膚、肉、骨がわかりやすくなってたりある部位の実感がより出てきます。

 

関係性のレベルのどこに、今自分がフューチャーして見てるのか?

本人はどの関係性の相で学び方を楽しめる状態にあるのか?

検証しつつ、分析していく過程を辿ると

関係性のレベルの今見ている相の上下も必然と見ているんだよな。

 

股関節のことみるなら、両隣の膝と骨盤はまず見ないとね!!と似たような話^ - ^

 

 

本人が、今何を感じ、考え、しているか?というのは実は

繋がりをもっている提案者側も同じように

自分は何を感じ、何を考え、何しようとしているのか?を感じながら並行して

検証していくこと

 

そのものがコミュニケーションであるとする。

 

 

すると適応応答ですね。

お互い影響受けるので、beingですね。

心地よくですね。

 

 

そんなことしてったら勝手にどこか身体の部位は分化していきます。

 

 

結果なんですね。

どの視点で物事考えても、やっぱりプロセスの先に本人も提案者も知らない何かが起きる。

 

戦略として、学びの戦略をうまく使っていけば良い。

 

 

分からないから楽しい。!

 

 

 

 

感情の難しい所。

感情というのは本能的な部分。

生き物には必ず無くてはならんもの。

本能がなければ生きていけませんし、

この世の中に適応していかないと

時代に乗り遅れ、気持ちよく生きていくことはできません。

ヒトは一番適応力があり道具を使いこなすことが出来ます。が、

身体という器も使いこなすには、感情の作用を忘れてはなりません。

 

 

 

どこか奥底で、それが心地よいと思えば受け入れてくれるし招き入れてくれる。

 

不快に思えば、嫌だという応答が起きます。

 

 

なので、セラピストとして、他者と関わる時、その最初からの入りが一番大事なのでしょう。

 

 

 

初期値ですね。

 

 

 

その人にとって、自分という存在がどんな関係性なのか?

その時の本人や自分の状態によっても違います。

同じ瞬間なんてひと時たりともないんです。

数秒前の自分と今の自分はもう違います。

その違いに気づけるだけで楽しくさえいられます。

 

触られるという行為そのものをまず受け止めてくれる前提だろうか?

 

周りの環境はそのひとにとって快適であろうか?

 

 

 

その状況を学びの要素を最大限発揮できる

簡単な状況にした時の

本人の楽な応答から入っていく方がベターです。

 

 

for the better  ばかりでなく

for the worse  だってあります。

 

 

 

ベストとかワーストとか決めつけるのは簡単なようですが、

0か100かというのは、実は両極端で

その行き来には、けっこうしんどさがつきまといます。

 

 

 

ボリューム調整ができることが、調和を図ることになりますし、省エネになるので、心地よさ

居心地の良さ、快の感情を楽に発見できるかもしれない。

 

 

 

発見しようとしなくたって、感情がはたらかないことなんてないです。

 

 

 

感情をありのままに理解したら良いんです。

でもその感情は

感や思考の組み合わせのフィルターを通してまた感情も繋がっているのです。

 

 

 

なので、自分が意識として思っている感情が実は、思い込みの思考だったり、

 

感を素直に感じ取れてなかったり、感が足りていなかったり偏りがあったりすると

また感情にも影響を受けます。

 

 

 

逆も然り。

感情に支配されていることまあるやも知れません。その感情から変えられないという思考の思い込みなのだと思うけど。

 

そうすると

今起きている感を見逃しがちです。

 

 

 

 

ベストではなくベターでいいんです。

ワーストでなくてワースでいいんです。

 

間をしると、もっとその間も感じてきます。

そして感情を感情のままに感じることや思考のパターンや偏りを直すのではなく、

そのまま受け取って

己を知るということが必要なんですかなー。

 

 

面白いのがですね。

笑おうとしなくても楽な身体の動きが出てくると表情って自然と笑顔になるんですよ。

身体心理学ってやつですか??

 

 

 

歯を噛みしめる噛みしめるという緊張が抜けて、あくびが出る感じ。

楽ー。なんだーこれー。ほわー。ほっぺが落っこちる感じ。

 

するとね。ほっぺが下に下がると口角は持ち上がるんですよね。

 

 

 

重力に抗おうとしなくたって、重力による影響で起きる色々な協重力作用に気付ければ、

そして床という偉大な力や身体の内なる力があるのだから。身をゆだねればけっこう楽なんですー。

 

 

 

楽な動きして、学び方の学び方を知っているひとの動きを見てると楽しそうですもんね。

 

自分も楽しいですよ。動いていて!!ホントに。この楽しさに気づく一つのきっかけとなったシンプルラーニングの考え方。楽しいですねー。

 

 

 

俺って怒りっぽいんだよね。

私ってネガティブなんだよね。

って自分に言い聞かせているヒト。

 

 

さあ自分の価値観と真逆のことを簡単なことから始めてみたり、

逆に今までだったら絶対に手放せなかったまのを一度手放してみる。

という非習慣という多様性を知ることに

限ります。

 

 

 

でも感情の取り扱い方には、要注意やー!!^ - ^

 

感、思考、そして、感情

あっての応答という結果の動きがあるんだ。

 

結果を、変えようとすな。

 

今の現状理解、

何を今感じ

何を考え

気持ちいいー?気持ちよくないー?

 

先に勝手に動きは変わっていくのですね。

 

 

同じこと繰り返し続けるのってなぜ?

設問1

同じこと続けるって、楽なのでしょうか?

 

 

 

例1続けることが良いことと思ってるタイプ

 

ツライけど、続けなきゃと致し方なく努力し続ける人

そんな人には、

努力することが良いことと思ってる背景。

ツライ先に良いことがあるはずという未来予測。

や過去の経験に基づく積み重ねでその先に楽があるんだという経験談

などあるかも。

 

 

例2    楽だなと一度思ったら、それを続けることを繰り返すタイプ

 

楽だなーといつもの習慣をこのいつもの感じねー!いい感じー!って思考の決めつけが起きて学ぼうとしなくなってしまったり

 

脳には、必ず繋げるという作用があります。

細胞と細胞は繋がらないと生きていけないように、

人と人と繋がっているという安心感が無いと孤独ですし

環境と繋がっているということも安心に繋がります。

 

 

ある個別のものとものを繋ぎ止める作用は

実は脳にとって別な見方をすれば

 

A.B.C  という3つの別なものがあったら

3つのまとまり方ってけっこういろんなパターンの組み合わせがあるので、情報処理するのも大変。

 

A→B→C  と決まっていた方が

一つの情報処理で済むので楽。

 

チャンクする。チャンキングといいます。

ひとまとまりにして物事を捉えることで、脳へのストレスを減らすパターン化作用なんです。

この作用により人が何も考えないでも行為を行えるようになっています。

自律化作用です。

これは生きている間ずっと行われ続けること。

 

でも赤ちゃんは最初まとまりのないけども、たしかにベーシックファンクションはお母さんのお腹の中から行われているのです。

グルングルンと。

捻れるという行為がもう遺伝子レベルに組み込まれているかのように。

 

赤ん坊は生まれてきたら、最初は訳の分からないカオスな動きをします。

あっちいったりこっちいったり。その動きはと本人さえ、親でさえ想像もつきません。

だけど、目の前に身体は動きたいように動いているのです。

目的なんかあるのかないのかわからず、身体が動きたいと脳にしているのかもうそんなのどうでもよいのでしょう。

 

チャンクできるならディチャンクも出来た方がより機能的なんですけどー^ - ^

 

そのためには

新しいことを発見して、何?これ?って、探求していく作業  これを続けていくしかありません。

リアルタイムな感にあたるのか?

 

感じて、繋がり、パターンになり、応答した結果、思考になって、習慣になる。

でも、今の感を感じることを忘れずにいること。

 

そうしないといつのまにかドラえもんの手のように、内部モデルはサイボーグのような内部モデルが出来上がってしまいます。

 

たぶん、強固にならないうちに多様性を知ると

また分化できるのでしょう。

心配せずとも人は、能動的になれば、誰しも小さな変化、比較が出来るのだから、安心してよし^ - ^

 

 

例3言われたことをやらなきゃと良い聞かせてやる優等生パターン。

 

これは自分が当てはまりますね笑

 

だれが、やれといったのでしょう?

義務感を感じているのは誰?

そうすることで、誰かが喜ぶ、

そうしないと怒られる

という妄想に囚われてない?

 

言葉は危ないです。どんな展開にも発展し拡張していくことできますから。

小学低学年くらいの子供が、なにか怖いなーとおもった時にいつもなら何でもないことが気になったり、それを関連づけてお化けみたいに思ったり、イメージ膨らましたら

それが夢になって出てきたりします。

 

そのクリエイティブな発想は、学ぶことも一理ですが、言葉遊びで満足したり一喜一憂することはけっこう疲れます。

反応している自分に気づきテンションコントロールして笑おうぜ。

自分笑

 

例4

飽きないで続けることがカッコいいと思ってるパターン。

続けていることは素晴らしいですよ。

壁をぶち破るくらいのエンジン全開でやってることってはたからみたら、頑張ってるねーと思われるかもしれないけど。

 

そのようなタイプでもいつも試行錯誤して、探求しているのであれば成長していきます。し違ったものも発見できますよね。

 

でも休みたい時だってあるし、脳も身体も適度な休憩や間が、運動学習を進めていくし、

まっていたら本当は、そのことに飽きてる自分に気づくことも出来ます。

飽きずにやり続けてキツイということに気づくことも、出来るかもしれません。

飽きている自分を見過ごさないためには、余裕が必要ですね。

やりたいならやりつつもいいけど快適かどうか

少し簡単な状況に落とし込んだ時に何か小さな変化起きていないか?に注意を向けていくこと必要かなー。

 

 

それから

曲がったら伸びたいし

伸びたらまるまりたいし

ひとのからだの構造からしても、ゴムのような作用あるので、そんな楽な身体の作用を使わないのはもったいないです。

 

 

 

 

例5

同じことし続けたら、使っているところは磨耗して使われない所は、実感がどんどん無くなります。

 

いわゆる使い過ぎによる怪我であったり

使わな過ぎて使い方を忘れてしまうこともあります。

 

危ないのは、痛みや不快に思う正常な警告システムがバカになってくる危険。

痛みや不快を回避するあまり2時的、3時的な代償の積み重なりで

何が何だかわからなくなることもあります。

 

その程度に応じて、簡単な所から、丁寧に読み解いて、お互いに本人の中で起きていることを知っていく作業をより密に行う繊細さがこの場合必要かなー。

 

例をあげたけど、もっと多様性があるし

その対策も人それぞれ。

あまり決めつけるのもよくない。

 

 

付き合っていくという作業を快適に続けていって寄り添うことが僕たちには求められるのでしょうか??共同学習者ってことですかー?

 

小さく比較する。そして、起きている変化を積み重ねる。

関係性に目を向けすぎる傾向、繋がりや遠い所との関係性に最終的に向かっていく結果は良いんですけど、

 

 

その前に起きている小ちゃな変化や違いを丁寧に感じて比較することは、

そこに自分の身体がある、動いているという

実感が出てきてクリアになる。

 

 

別な言い方をすると

組織化していくことは結果であり

小さな変化や違いや比較の積み重ねが

実感をより本人がつかむことに繋がる。

すぐに結果を求めないで

関係性で言うところの簡単で無意識な応答の変化を少しずつ明確に。

 

コミュニケーションしていることを忘れずにね。

受け取るだけでなく、小さな提案もしてみたり、ちょっとの制約や待ってみよーとか

遊びの余裕を持ってみたりねー。

自分の余裕という隙間が本人の学びの余裕にもつながるー!!

 

 

だって、人のシステムはそもそも勝手に繋がるように出来ているのだから、

サポートしている人は

まず落ち着かなきゃ。beingです。

 

今飛行場これから着いたらバタバタしますが、

その時間の隙間で学びのまとめをしながら

テンションコントロールですー笑

 

落ち着けーではなく、

焦ってるわー!走らんくても間に合うでしょー!

忘れ物チェック今のうちにしといて、後は、チェックインだけだー笑

 

 

 

 

 

 

相手の反応を許すこと。

相手の反応、どう動きたいかを許すこと。

 

少しずつ、動きが洗練されてきたのであれば、

どんどん本人の応答に身を預けるだけ。

 

必要以上に感じ取ろうとしても、それは情報量の過多になる可能性がある。

 

色んな所が繋がっていること関係性に目を向けたり、床との繋がりから下に落ちて上に上がる前後の力。皮膚、肉、骨、動きの方向性、ベーシックファンクション、意識を色んな所に拡張するのは良いんだけど。

 

 

 

はい、待ってください。

 

 

そこに本人いますか??

本人の主体はありますか?

本人がそのちょっとしたオリエンテーションのきっかけを頼りにどう動きたがってますか?

感じ方を感じてますか?

本人アップアップしてませんか?

もっと先行ってくださいと言ってませんか?

何か他の情報を欲してませんか?

必要以上な情報いらないから、動きたい方向にガイドしてほしい。

 

などなど、その時の本人の応答に任せる、

能動的な参加を快適に続けられるように

状況を整えておけばよい。

 

そしたら、本人が勝手に見つけていく。

 

 

hands on  からhands  off

へ支援の量を減らしていくことが、自立、自律的な動きを発見することになっていくんだ。

 

その動きの発見は結果であり

そこに至るプロセスで感じるものは自ずと本人は感じて無意識に日常生活の基本動作はできるんだ。だっていつも無意識に寝起き、立って歩いてるしね。

 

ベーシックファンクションに応答しながら日常生活レベルの動きをガイドしていく一連の流れ

 

まだまだ鍛錬が必要なこと再発見ー!!(^ ^)

 

 

ウヒョーワクワクしてきたー!!

楽しすぎだわー!!!

さあ明日でなくて今から実践だな。

 

 

学生教育にも通じる所が大いにある。

シンプルラーニングと教育についてはまた近々考えて実践報告しよー

 

 

 

 

 

 

 

多様性を認めることで起きる楽しさ

多様性。

 

統一された、一矢乱れぬ  ビタッと決まる

踊りを披露している方を見るのも

壮観で、良いなーとも思うけど、

 

SMAPのように、同じ踊りをしているはずなのに、皆一人一人個性が違い考え方、感じ方が

異なって表現したいことも違うという結果、

みな少し、違いのある踊りと歌を披露している。

 

でも信念は同じで、アイドルとして、世間を楽しませる芸能人としての役割を全うしている。

世間の望んでいるグループとして活動している。

 

でも、表現の場ではそれぞれ、個性を発揮している。素晴らしいなー。

 

 

組織にいながらも、自分のやりたいことを自ら見つけて、表現すること。

 

そりゃ組織にいたら、制約はいろいろあるのだけど、それを逆手にとってそ!をどう受け止め、その問題点を問題点として扱わず、

どう活かしてやろうか?

 

置かれたとこで自分の咲かせたい花を咲かせるのもよし。自分が咲きたいと思っても見なかった花が咲くかもしれません。

 

場を変え、職場を変え、職種を変えるというのも一つの手段ではあります。

 

でも逃げではなく、自分がどうありたいか?のプロセスありきで、次にどうアクションするか?

結局アクションした後の感じ方が大事なんだと思う。

 

 

違いを尊重すると色んな発見が起きます。

子供が絵本を読みたい、読んでと絵本を持ってきます。パパ、はい!!

 

あいよー(^^)

 

時には、

絵本を開くことを楽しんでいる時もあります。その時は、絵本の中身なんか気にしません。

絵本を開いていくときの質感や、動いている様を楽しんでるのかもしれません。

 

時には、

絵本の中身を理解しようとしているのかもしれないですし、

 

時には、

好きなページだけ読みたい時もあります。

 

時には、

絵本を読んでもらいながら、好きなプーさんのテレビを見たいのかもしれません。

 

時には絵本の中に自分が、参加している時もあるかもしれません。

 

 

一つのページだけとってもその時、その絵の

何を捉えているかなんて、外から見ているだけでは中々わかりません。

 

見えないものの、子供本人は

違いを楽しんで探求してるんです。

 

奥さんはそれが大得意でいつまでも絵本を見ていられるといいます!!

 

 

最初は❓と思ってました。

が今は良くわかる気がします。

 

その絵をその瞬間にどう受け取り、想像して楽しむか??

 

 

絵本というのは、その想像を膨らますためのキーワードを随所に含んだ言葉がけが、書いているのです。

 

 

なので絵本を読んであげる時は、できるだけ書いてある文章をそのまま読んだ方が良いというのはそういうこと。

 

 

その言葉と絵をどう受け取り、クリエイティブになるかは子供次第。

 

 

親は学びの環境を整えてあげて、可能なかぎり見守ってあげること。

 

場を提供。

 

そのための、クリエイティブな毎日を送ること。実践者であること。

 

 

色々な世界を見せてあげたい。

そして、その動向を見守り

感じていることを表出する

援助をする。

 

一緒になって、

楽しむ。

悩む。

混乱する。混乱する。混乱する。

相談に乗ってもらい、手助けしてもらう。

試す。試行錯誤。の繰り返し。

 

 

このように、自分の教育をしていきたい、楽しみたい。

 

学生の教育係を任命されている今組織の中で待たされている、任務を全うするときには、

 

以上のことを、踏まえていかないと。

クリニカルクラークシップに基づきながらも。

 

 

 

 

動きを洗練するためには?

動きをより繊細、洗練、

より良い状態になっていくためにはどうすれば

良いのか?

 

皮膚をより滑らかにする?

筋肉や筋膜の粘弾性を確保しながら

肉の動きをみつけていく?

骨関節をモビライゼーションして動きを引き出す?

 

それって局所を良くするだけで意味ないよね??

 

それでは全身を考えよう!!

筋膜や筋肉のつながりはどうなってる?

パーツとパーツの関連性に着眼しなきゃねー!!

もう少し、広げて背骨の動きも含めて

カーディナルラインの繋がりどうなってるかなー??

 

 

 

これだったら局所じゃなくて繋がりを拡張して全身に目を向けられてきたね?

でも、その動きを日常生活の中で基本動作として、そして日常の活動の中どう使っているのだろう??

そして他者との関係性とか社会の中でどう関わりを持って生きていってるんだろうね??

 

やっぱり人は生きていくのには、1人では生きていけなくて、なにかと繋がりを持たないと楽しく生きていけませんもの。

 

 

一見正論を言っているようですが、文章の最初から後半まで見ていくと、

何だかどんどん複雑になってきて

えー、俺どう生きていっていいのかわかんなーい。今までの人生なんて、無駄に過ごしてきたのか??

と自己嫌悪に陥りがちです。

 

はい、そうなりやすいのは自分です。

多分、自分が関わってきた対象者にも少なからずそういう思いをさせてしまったこともあるのだろうと思います。

はい、短く深くはんせいーーーー。

 

はい、反省終了。

 

 

いいのよ、むかしがあって、巡り巡って今起きていることを発見しただけ。

同じことを、昔に発見したら良かったかもしれないけど、その頃に見つけていたとしても今発見したものと同じものが手に入るともなりませんし

手に入るかもしれません。

 

そんなの妄想の域です。言葉遊びで幻想なのです。

多分、今、気づけたという。この今のタイミングが自分にとってどう感じ、どう考え、どう行動に移し、振り返っているのか?を

続けていくことが、

動きを洗練させていくことになるのでしょう。

 

未来を望んでもダメです。それも妄想になります。あまり明確に目標設定をしても、それに対してショートゴール、ミドルゴール、ロングゴールを立てます。

 

難しかったら、途中でゴール設定変えればいいじゃないー??^ - ^

その度に、また位置から考えを再思考。

 

なんか疲れるなー。決まったことやらなければいけない。

自分で決めて主体的に取り組んでいるはずが、いつのまにか、もう1人の自分の命令に従ってやれと言われたことをただ繰り返して取り組んでいることになってしまうかも。

 

 

わー嫌ですよー。それ嫌です。

 

 

自分の信念でもないけど、これは譲れない、

という芯はもつことはこれは、動きの学び方を伝えていく教育者として洗練させていく上では、モチベーションとして持っていないとこれはいけません。

ただ、それが一番に自分が楽しいと思えるこだわりでなければ、

自分がしんどんくなり、続きません。

 

目標設定をもっていいけど、参考程度に。

その指標をもとに、今起きていることに目を向けられるように、失敗も含め

多様性を許すこと。

 

 

自分にとって、

感!!   

感じているものが

何が簡単で

何が難しいのか?の傾向を知ること。

 

思考として

それをどう受け止めて、考えているのか?

ギャップはおおいにあり。

 

実際の行為はどうか?

自分の理解度や状況からして、

いまの環境設定や課題が複雑やないか?

簡単すぎないか?

 

まずは簡単なことから丁寧に検証作業。

 

 

この検証作業は、

いわゆる問題解決思考でいわれる

分析に基づく仮説生成、検証、振り返り

作業ではない^^

 

感じていることと

考えていることと

実際に起きていること。

のギャップに気づくこと。

 

危ないのは、ギャップが無くなることが目的となってしまったら…

 

 

 

わかった気になってまた思考の習慣に囚われます。

内部モデルの更新はそこで止まり、

なんか楽ーと思い同じことを続けていくことになるやもしれません。

 

 

もしかしたら、そう思い続けることの方が

人によっては楽!?なのかもしれません。

大半の人はそうでしょう。

 

 

でも少しずつ、学び方の学び方を知り始めている同志が増えてきています。

少しずつですが、着実に。

 

その同志達と一緒に、すこしでも

この探求することの楽しさを

共有していきたい!!!

強要ではありません笑

 

 

そのためにはどうすれば良い??

自分が楽しく多様性のある毎日を豊かに過ごす実践者であり続けること。

 

 

そして、適応応答すれば、相手は

こちらの存在に影響を受けて、

内部モデルが変わるきっかけが生まれます。

 

そのキッカケを拡張する道具として、

我々がいます。それはハンドリングだけではなくて我々の態度など何でもです。

 

その道具をどうツールとして利用して

具体の動きに落とし込むのかは本人です。

 

話が遠回りになりましたが、本人が動きを洗練させていくためには、

 

まずは

提案者がいちばんの実践者であること。

 

本人の得意なこと、不得意なこと、

感じていること、考えていること、していることを明確になるように写し鏡であり続けること。

 

その状態を踏まえ、場を提供すること。

これははんどの中で多様性を許す適応応答かもしれませんし、環境設定かもしれません。

これを学びの戦略と言えるかもしれません。

そして、その人にとって簡単なことから始めた方が、楽で余裕がありますし、発見が多いかもしれません。習慣から始めた方が嫌がられないでしょうし。

非習慣は少しずつ。

 

 

まずは自分から。楽しく探求を続けていきます^ - ^