同じこと繰り返し続けるのってなぜ?
設問1
同じこと続けるって、楽なのでしょうか?
例1続けることが良いことと思ってるタイプ
ツライけど、続けなきゃと致し方なく努力し続ける人
そんな人には、
努力することが良いことと思ってる背景。
ツライ先に良いことがあるはずという未来予測。
や過去の経験に基づく積み重ねでその先に楽があるんだという経験談。
などあるかも。
例2 楽だなと一度思ったら、それを続けることを繰り返すタイプ
楽だなーといつもの習慣をこのいつもの感じねー!いい感じー!って思考の決めつけが起きて学ぼうとしなくなってしまったり
脳には、必ず繋げるという作用があります。
細胞と細胞は繋がらないと生きていけないように、
人と人と繋がっているという安心感が無いと孤独ですし
環境と繋がっているということも安心に繋がります。
ある個別のものとものを繋ぎ止める作用は
実は脳にとって別な見方をすれば
A.B.C という3つの別なものがあったら
3つのまとまり方ってけっこういろんなパターンの組み合わせがあるので、情報処理するのも大変。
A→B→C と決まっていた方が
一つの情報処理で済むので楽。
チャンクする。チャンキングといいます。
ひとまとまりにして物事を捉えることで、脳へのストレスを減らすパターン化作用なんです。
この作用により人が何も考えないでも行為を行えるようになっています。
自律化作用です。
これは生きている間ずっと行われ続けること。
でも赤ちゃんは最初まとまりのないけども、たしかにベーシックファンクションはお母さんのお腹の中から行われているのです。
グルングルンと。
捻れるという行為がもう遺伝子レベルに組み込まれているかのように。
赤ん坊は生まれてきたら、最初は訳の分からないカオスな動きをします。
あっちいったりこっちいったり。その動きはと本人さえ、親でさえ想像もつきません。
だけど、目の前に身体は動きたいように動いているのです。
目的なんかあるのかないのかわからず、身体が動きたいと脳にしているのかもうそんなのどうでもよいのでしょう。
チャンクできるならディチャンクも出来た方がより機能的なんですけどー^ - ^
そのためには
新しいことを発見して、何?これ?って、探求していく作業 これを続けていくしかありません。
リアルタイムな感にあたるのか?
感じて、繋がり、パターンになり、応答した結果、思考になって、習慣になる。
でも、今の感を感じることを忘れずにいること。
そうしないといつのまにかドラえもんの手のように、内部モデルはサイボーグのような内部モデルが出来上がってしまいます。
たぶん、強固にならないうちに多様性を知ると
また分化できるのでしょう。
心配せずとも人は、能動的になれば、誰しも小さな変化、比較が出来るのだから、安心してよし^ - ^
例3言われたことをやらなきゃと良い聞かせてやる優等生パターン。
これは自分が当てはまりますね笑
だれが、やれといったのでしょう?
義務感を感じているのは誰?
そうすることで、誰かが喜ぶ、
そうしないと怒られる
という妄想に囚われてない?
言葉は危ないです。どんな展開にも発展し拡張していくことできますから。
小学低学年くらいの子供が、なにか怖いなーとおもった時にいつもなら何でもないことが気になったり、それを関連づけてお化けみたいに思ったり、イメージ膨らましたら
それが夢になって出てきたりします。
そのクリエイティブな発想は、学ぶことも一理ですが、言葉遊びで満足したり一喜一憂することはけっこう疲れます。
反応している自分に気づきテンションコントロールして笑おうぜ。
自分笑
例4
飽きないで続けることがカッコいいと思ってるパターン。
続けていることは素晴らしいですよ。
壁をぶち破るくらいのエンジン全開でやってることってはたからみたら、頑張ってるねーと思われるかもしれないけど。
そのようなタイプでもいつも試行錯誤して、探求しているのであれば成長していきます。し違ったものも発見できますよね。
でも休みたい時だってあるし、脳も身体も適度な休憩や間が、運動学習を進めていくし、
まっていたら本当は、そのことに飽きてる自分に気づくことも出来ます。
飽きずにやり続けてキツイということに気づくことも、出来るかもしれません。
飽きている自分を見過ごさないためには、余裕が必要ですね。
やりたいならやりつつもいいけど快適かどうか
少し簡単な状況に落とし込んだ時に何か小さな変化起きていないか?に注意を向けていくこと必要かなー。
それから
曲がったら伸びたいし
伸びたらまるまりたいし
ひとのからだの構造からしても、ゴムのような作用あるので、そんな楽な身体の作用を使わないのはもったいないです。
例5
同じことし続けたら、使っているところは磨耗して使われない所は、実感がどんどん無くなります。
いわゆる使い過ぎによる怪我であったり
使わな過ぎて使い方を忘れてしまうこともあります。
危ないのは、痛みや不快に思う正常な警告システムがバカになってくる危険。
痛みや不快を回避するあまり2時的、3時的な代償の積み重なりで
何が何だかわからなくなることもあります。
その程度に応じて、簡単な所から、丁寧に読み解いて、お互いに本人の中で起きていることを知っていく作業をより密に行う繊細さがこの場合必要かなー。
例をあげたけど、もっと多様性があるし
その対策も人それぞれ。
あまり決めつけるのもよくない。
付き合っていくという作業を快適に続けていって寄り添うことが僕たちには求められるのでしょうか??共同学習者ってことですかー?