数字の1と2の間は誰が決めたのか?

習慣のコーヒーを淹れながらふと思いたったこと。

 

 

最近はタイムウォッチで時間を図ることもやめてみて、良い感じになってたんだけど

 

 

そもそも声に出して数えている数字の1と2

は誰が決めているのか?

 

 

とわけのわからぬことを考えていた。

 

 

なんとなくニュートラルの意味合いを考える機会を持たせてくれた

オオヤミノルさんという焙煎士の著書

珈琲の建設!!

を読んで感じたこと。

 

何回かにわたって、感じたことを健忘録としてのせよー。

 

 

1とか2とかその数字を決めたのは誰だろう?

 

 

有名な学者とかなのかもしれないけど、

1とか2の間を決めることは、人はみなできる。

 

 

逆に言うとその間がある

という

中間を知ってるから  1とか2が

わかる。

 

その1とか2というのも非常に不明確なものである。

 

物の数という物理的なことであれば、変わりようのない事実であるけど、

それってつまらないな。

 

イーチ  ニーー  サーンー

って、声に出して

声に出さなくても心の声で、

数字を示した時に  

結果1とニの  間があるし

その間も

その時の気持ちや状況によって変わって良いものだし。  

 

その間も一点ではなく、ちょうど良い幅みたいなのがあって!  

 

長すぎず、短すぎず  ちょうど良い長さ

 

 

そのちょうど良いはその時の文脈によっても変わるだろうし。 

むしろ変わらなければ、それはちょうど良いではない。

 

 

あれやこれや試行錯誤すると自分の個性

パターンは出てくるだろう。

 

 

間は一点ではなく幅があることを

忘れなければ、そのパターンが状況に応じて楽ではないと感じ取れるのかな。  

 

そー幅があるのだから。  

でもその幅にも、端と端があるから、

あまり大きすぎる変動をつけすぎると

辛く感じて、元の習慣に戻りたくなってしまう。

 

 

そりゃ何にも考えずいつもやってる方法を取る方が、脳へのストレスは減るのだから。

だけど身体へのストレスはいつの日か積み重なって、問題が起きるのだろう。

 

同じような思考パターンを取っていれば、実は脳のどこかにも負担が偏ることもあるのかな?